森の食堂 ア・ラ・カルト

フランスの片田舎で、四季の食材を使った料理を楽しみながら、森の動物とネコ達と暮らす日々を綴ったブログです。

フランス時事問題

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2017.01.08.Sun

日本の街で暮らすこと

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世界各国で働くフランス人にアンケートをとったところ「暮らしにくい街」の第1位が東京だということが最近の調査で分かったそうです。
次いで第2位がルアンダ(アンゴラ共和国)、3位チューリッヒ(スイス)、4位ジュネーブ(スイス)、5位横浜(日本)、6位バーゼル(スイス)7位名古屋(日本)、8位ベルン(スイス)9大阪(日本)、10位キンシャサ(コンゴ)というようにトップ10に日本の都市が4つも入っているのには驚きました。(スイスの都市も4つ)

フランスの平均家賃が628ユーロ(77,200円)で去年よりも高くなったと昨日のYahooの記事にありましたが、日本の平均家賃が約15万円ということですから二倍の違いがあるようです。でも家賃だけで言えば、他にもニューヨークやロンドン、香港の家賃も相当高いようですし、スイスの物価は日本より何倍も高いと聞きました。日本はスイスより物価は安いのに、フランス人が暮らしにくと感じるのはどうしてなのでしょう。

単にお金の問題だけではなくて、医療や福祉などの社会保障、労働時間、英語が通じない、食品や看板広告など様々な表示のほとんどが日本語、住む家や周りの環境(部屋の大きさ、満員電車での通勤)高速料金、車の維持費、チーズの値段が高い←冗談のようで本当のことかも(笑)などなど様々なことも、暮らしにくいという結果につながっているのかもしれません。

日本は治安もよくてこんなに便利で暮らしやすい国は他にないと思っていましたが、観光ではなく実際に働いて暮らすとなると、フランス人(外国人)にとってはそう簡単に馴染んでいける国ではないようです。妻は東京で6年半生活したことがありますが、「日本はお金があれば安心して暮らせるけど、無いと楽しめない。どこに行くにもお金がかかる」と言っていたのを思い出しました。少子高齢化が進み、これから外国人労働者の雇用を増やすことが重要視される中、このアンケート結果はどういう意味をもつのか気になるところです。






2016.06.09.Thu

ユーロカップ

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明日から7月10日までの一ヶ月間、サッカーユーロカップがフランスで開催されます。先日エッフェル塔の前を通りかかった時、野外でも試合を観戦できるように、巨大なスクリーンでも建設しているのか、シャンドマルス公園で大掛かりな工事をしていました。公園内では様々なイベントも計画されているようです。

しかし、周辺にある商店からは、開催期間中に試合観戦で熱くなったサポーターが、お店や駐車している車を破壊して、憂さ晴らしをするのではないかという心配の声が上がっています。
正月の元旦に1,000台近く車が燃やされる国ですし、つい最近もパリの15区で100人近い若者が理由もなく、商店街のショーウィンドウを割ったり、お店のものを壊してまわり、数人が逮捕されたという事件もあったので、お店の人が心配をするのも無理もありません。夜も騒がしくなりますし、サッカーに興味のない人にとっては、はた迷惑な話でしかないのかもしれません。

労働法改正のデモも相変わらず続いていて、昨日からパリの一部でゴミ収集車がストライキをしているので、街のダストボックスにゴミ袋が溢れている様子をニュースでも伝えていました。
こういった様を見ていると、飢えも戦ものないこの国に生きていて、何がそんなに不満なのかと問うてみたくなります。




2016.06.04.Sat

川の氾濫

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いやいや、それにしてもたくさん雨が降ったニャ。雨の峠は越えたように思えるけれど、明日も雨の予報。
川の増水というのには時差があって、後からジワジワと迫ってくるそうだ。
オイラが住んでるニクキュウ村にも、小さな川が流れているんだけど、今になって水位が上がってきているらしい・・。
「ここは浸水の心配はないよ〜」ってyoyoは言ってたけど、あいつは楽観的なところがあるし、オイラとしては、このバルコニー付きのお家が流されてしまわないかとても心配なのだ。

日本のメディアでは、パリセーヌ川の氾濫が主に取り上げられてるけど、パリ近郊にはセーヌ川以外にもたくさんの小さな川が流れていて、そのあちこちで氾濫が起き、実際はパリよりも南方にあるたくさんの町で、浸水による被害が起こっているニャ。
似たような川の氾濫は、1982年にもあったらしいけど、その時はこれほどの被害はなかったそうニャ。


森や沼には水を溜めておく働きがある。しかし、人はここ数十年の間に、森林を切り開き、沼を埋め立ててたくさんの住居を建ててきた。今回、大雨が降ってたくさんの水が川に流れ込み、短時間で川が増水してしまったのは、「森林や沼が無くなったことが原因とも言える」とセンモン家のおじさんも話していたニャ。

針葉樹ばかり植林された山が、土砂崩れを起こしやすいのと同じで、天災でありながら、人災とも言える災害ということだろうか・・ニャ。

川の氾濫は徐々にパリの西方に移りつつある。これ以上被害が拡大しないことを祈るニャ。





2016.05.19.Thu

デモ

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これも国の文化なのだと思いますが、フランスは本当にデモの多い国です。
農業従事者、タクシー運転手、トラック運転手、教員、医師、看護師、消防士、パイロット、美術館員etc...のデモ、デモ、デモ・・。
車で街中に出かけるときは、行く先々でデモがないかきちんとチェックしてからでないと、ひどい渋滞に巻きこまれます。
大きなデモのある時は、ニュースの中でデモ予報をしてくれて、渋滞に気をつをけるよう促してくれます。

最近では政府の新たな労働法改正の件で、それに反対する市民の大規模なデモが各地で頻繁に起こっています。
中にはデモに参加するのを装い、警官に暴力を振るったり、破壊行為を楽しむ為に来るような輩もいて、警官隊とデモ隊との間で投石と再榴弾の応酬が繰り返され、デモ隊が暴徒化し問題になっています。

警察は警察で、こんな暴徒化していく市民相手に、まともに職務なんかできない!と警察官がデモを起こす始末・・。( ノД`)
昨日はパトカーが15人のデモ参加者?に襲われ、窓ガラスを割られて火炎瓶が投げこまれ、車を燃やされてあやうく警官殺人にもなりかねないという事件も起こりました。

まだしばらくは、この労働法改正を舞台にした混乱は続きそうです。




2015.02.18.Wed

第一次世界大戦が残したもの

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ちょうど今から100年前、1914~1918年の間フランスは第一次世界大戦の最中にありました。私にとって戦争というのは、映画やテレビのドキュメント番組で見ただけのものでしかありません。
戦争体験者がいなくなりつつある今、大戦を経験したその国で暮らす者として、過去に起きた事に対して何をしていったらいいのか。

自分の居場所をあえて戦いの中に求めて、過激な思想に傾倒する若者が世界中で増えています。

戦争が残した教訓とは何なのか、それを後世に伝える意味とはどういうことなのか。
否応なしにこの大戦に巻き込まれた人々の記録や手紙を拾い集め、簡単ですがまとめてみました。


1914年8月2日
 
村に戦争の徴収命令が来た。
20歳を越え48歳未満の男は戦争へ行かなければならないというものだった。
物資を運ぶための馬や車も手放さなければならない。

収穫を前にした農民にとって、この時期に馬や男手がとられるのは深刻な問題だった。
冬になる前に、土も耕さなければならない。
これからは女性たちだけで、子供を育て畑を切り盛りしなければならなくなる。

兵士のほとんどは職業軍人ではなく、普通の一般人だった。
戦争がなければパン職人であり、靴職人であり、事務員、弁護士、農民だった。
これからは戦士として、銃を持って戦場へ向かう事になる。

誰もがこの戦いはそう長くは続かないと楽観的に考えていた。
暮れのクリスマスまでには帰って来られるだろう。
自分は生きて家に戻るのだ。


1914年12月 

戦争が始まってからわずか4ヶ月の間に、敵と味方を合わせて100万人を越える戦死者が出ていた。
想像以上の死者の数だった。重機関銃も使われるようになり、過去にあった戦争とは圧倒的に武器の火力が違っていた。

遮蔽物の何もない平原での戦いが主だった。そのため塹壕(ざんごう)と呼ばれる、銃撃戦から身を守るための溝を何キロにも渡って掘りそこで戦かった。
湿った寒さの中、泥にまみれ身を隠し、数十メートル先の敵兵とにらみ合う日が何日も続いた。

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当初は戦線の状況が新聞でも伝えられていたが、あまりの死者の多さに、徐々に真実が伝えられなくなっていった。人々の士気が下がってしまうからだ。
味方の兵士の中には、わざと敵に捕まりに行くものも出てきた。捕虜になれば戦わなくてすむのだ。

戦火の届かない所で暮らす人達にとって、戦争というのはどこか遠い想像の中のものでしかなかった。
戦地ではいったい何が起こっているだろう。
クリスマスまでに戻ると言っていた男達はどうなってしまったのか。


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戦いの合間にトランプをしたり、自分の趣味の話やコレクションの交換をしたりもした。
時折キャンプ地で開かれる演劇やマリオネットは、兵士達でいつもいっぱいだった。しかし、何よりの癒しは、家族や友人に手紙を書く事だった。


”兵士から家族に届いた手紙”  -愛する両親へ-

『戦場ではいつも泥にまみれ、空腹と寒さとの戦いだった。
楽しみであるはずの食事も、昼には煙と燃えたススの味のする水を温めたようなスープと、夜には肉の缶詰とジャガイモが支給されるだけで、食事というにはほど遠く食欲も沸かない。』

『突撃の笛の合図が鳴るのが何よりも怖かった。塹壕から出て敵陣に迫らなければならないからだ。戻る事も許されない状態だった。
最前線から戻ってくると身体中泥だらけで、服についた泥を味方にナイフを使って取ってもらった。もう何日も手も顔も洗っていない。
今日は2週間ぶりに靴を脱いで寝た。今では藁の上でも地面でも寝られるようになってきた。もう普通のベットでは寝られないかもしれない。』

『前線ではおびただしいほどの弾が飛び交っていた。砲弾の跡から跡へ移動して進む。分刻みで次の瞬間に、自分は死んでしまうのだと考えていた。
ある時は1200人いた味方が、一戦を交えて帰ってくると300人に満たない時もあった。
どうして自分はこの300人の中に入ってしまったのだろうか。』



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『義母から聞いた義祖父さんの思い出』


「父が戦争に行ったのは17歳の時だった。
20歳以下でも志願すれば、戦いに参加することができたため
父は自分から志願した。

あの戦争の中で、ひとつだけ忘れられない出来事があると言っていた。
それは『人を殺した』と分かった瞬間だった。
その時まで銃を撃っても敵と戦っているというだけで
"人を殺めている"という意識はなかった。

『ある時、戦いの中で一人の若いドイツ兵と鉢合わせになった。
はっきりとその兵士の顔つきがわかるほど近い距離だった。

目と目があった。
彼は自分とさほど変わらぬ年頃で、綺麗な青い目をしていた。
私は身近に自分の死を感じた。

そして私は引き金をひき、彼はその場に倒れた。
撃たなければ撃たれていた。
これが戦争なのだと思い知らされた瞬間だった。

あの時の青年の目を今でも忘れられない』


父は両足とお腹に大きな怪我を負ったため前線から離れ
死ぬまで後遺症をわずらうことになった。
そのため第二次世界大戦には参加できなかった。

鳥でも犬でもどんな動物とでも会話のできる人だった。」







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