森の食堂 ア・ラ・カルト

フランスの片田舎で、四季の食材を使った料理を楽しみながら、森の動物とネコ達と暮らす日々を綴ったブログです。

フランス歴史

2017.03.04.Sat

街の掃除

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以前、ブログで「鼻の都は臭かった」(←ココ)という記事を書いたことがあったのですが、『昔まだパリの下水道の設備が充実していなかった頃、家庭から出される生ゴミや汚物で、道の溝がすぐに詰まり街はいつも腐った肉や魚の臭いで溢れていました。アパートの上の住人は、下まで汚物(糞尿)持って運ぶのが面倒なために、窓から外に投げ捨てることも、しごく当たり前のことだったそうです。また、馬車が重要な移動手段だったために、パリにいた数万頭にも及ぶ馬達の糞尿で街中は悪臭に満ちていたようです。通りの真ん中は道の両端より低くなっていて、雨が降った時に汚れがその中央に集まるようになっていました。』
そういった歴史があったせいなのか、今でもパリでは水を使って道路を掃除をしている光景を見かけます。



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水を流して、ただ箒で掃くだけよりももっと効率のいいやり方を考えたのか、ネットで調べてみると、馬に大きなタワシのようなものを引かせたり、上の写真のように自転車の後ろに回転するタワシのようなものを取り付けたりしたものもあったようです。




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近代化してくると水の入ったタンクを積んだ車が、水圧で一気にゴミを集めるようになってきました。現在もこの手の小さな車が掃除しているのを時々見かけます。数年前まで、犬の糞も飼い主が拾わずにバキューム機能のついたオートバイがフンを集めていましたが、最近では飼い主さんがきちんと落し物を拾っている姿も時々みかけます。


フランスの学校では生徒たちが校内の掃除をしません。掃除をする人がちゃんといるので「掃除は自分たちがするものではない」という考え方が子供の頃から備わってしまっているようです。日本の学校のように、自分たちが汚したものは自分できちんと綺麗にするという意識を植え付けるのは、個々のモラルの向上のためにも大事なことだなと感じています。







2016.05.08.Sun

5月8日 終戦記念日

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       ※写真はYahooニュースより
今日2016年5月8日は、第71回第二次世界大戦フランスの終戦記念日。今日から毎月第一日曜日、シャンゼリゼ大通りが歩行者天国として解放されることになりました。
日本で歩行者天国というと、銀座の歩行者天国を思い浮かべますが、今まで首都パリに”ホコテン”はなかったようです。



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1944年、連合軍がパリに進行し、ナチス・ドイツの占領下から解放された喜びで、どのパリ市民も身体いっぱい喜びを表現しています。一人一人が必死に生きた。そんな時代だったに違いありません。

戦後71年。たった71年の間に、世界はずいぶん変わったような気がします。








2015.02.27.Fri

戦争集結から、1920年台「狂騒の時代」へ


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国益、名誉、支配欲とそれに対する抵抗が巻き起こした第一次世界大戦。サラエボで起こった事件は、単に大戦が始まるきっかけに過ぎませんでした。

先の見えない長引く戦争で兵士達は士気を失い、ただ死ぬために戦場に行くのではないかと考え始めた男達の中には、戦地に行くことを拒否する者も出てきました。しかし、そういった兵士は反逆罪として銃殺されます。
戦争末期には、いったい何が原因で、何の目的でこの戦争が始まったのかさえ分からないほどになっていました。

4年に及ぶ争いはドイツが敗北を認める形で終わりを迎え、1918年11月11日フランス、イギリス、アメリカの連合国とドイツの間に休戦協定が結ばれました。(大戦途中ロシア、イタリア、旧オーストリアは長期化する戦争によって、国内で革命が起るなどして離脱)どの国も莫大な国費と資源を使い果たし、過去に例をみない犠牲者をだした。


国境という壁を取り除けば、そこにはどの国もみな同じ平和を願う市民の姿がありました。


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戦争の犠牲になったフランス人兵士136万人。パリ陥落だけは死守しなければならないという想いで戦いに挑んだ、『ヴェルダンの戦い』その時に戦死した身元の分からない一人の兵士が、1921年1月28日に凱旋門の真下に移され埋葬されています。



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名も無き戦士の墓 Tombe du Soldat inconnu

『起こってしまった過去を変えることはできない。しかし、誤った過去でもそれを戒めとしてこれからを生きることで、過去に生きていた一人一人の人生にも意味が出て来る』






そして・・



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1925年 エレガンスコンクール

戦争が終わり、人々は失った時間を取り戻すかのように夜通しダンスホールで踊り、解放された女性達は街にくり出し、希望に酔いしれ、若者たちが自由奔放に生きる「狂騒の時代」(Les années folles)と言われる時を迎えます。









2015.02.22.Sun

働く女性たち 

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第一次世界大戦によって生じた社会の変化のひとつに、中流階級の女性が仕事をするようになったということがあげられます。

それまでフランスの社会の中では、女性はまず家の中の仕事をこなし、良き妻、良き母親であり育児に努めるべきだという考え方が基本的にありました。戦前でも工場で働く女性もいましたが賃金も低く、結婚した女性は、自分で働いて得た給料を主人の了解なしに、自由に使うことができないという法律までありました。(※これは1907年に法律が修正された)

この時代に中流階級以上の女性が仕事をするということは、男性の稼ぎだけでは食べていけないがために、仕方なく外に出て働くと思われていたので、農民、商人、手工業者といった労働者階級の人達とは一線を引くとうい意味で、自分から進んで働きにでるということはなかったようです。
しかし、そういった女性達も事務員や公務員として働き、また自動車や路面電車を運転したりする人達も出できました。

これはこの先(第二次世界大戦以降)、女性が男性と同等に働く権利を獲得し社会に進出行くという、大きな変化のきっかけになりました。

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『徴兵されていった男達に代わり、多くの女性が軍需産業に携わるようにもなり、力の必要な工場の仕事も引き受けるようになった』(砲弾などを作る女性の給料は、戦前は男性の給料の50%ほどだったのが、戦中は80%まで上がった)


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農業国であるフランスは、人口の1/2が田舎で生活をしていた。ただでさえ仕事の多い農家の女性達にとって、馬や男達のいない畑の労働は非常に厳しいもので、戦前に比べると生産量も落ちて行った。

そのため、多くの地方に住む女性達が農作業に割り当てられ、作物を育て家畜を飼育し、搾乳をしてチーズを作るなど食料の生産と調達に努力しなければならなかった。

また、人手の足りない病院や野戦病院での手伝いなどをしたり、戦地に行っている兵士の中で家族のいない者へ、励ましの手紙を書いたり小包を送るという役割もしていた。』

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『フランスはもともと食料の自給率が高かったため、戦中に緊迫した食糧難という事態にはならなかったが、ドイツでは、左に接している国がフランス、右がロシアというように両隣が敵国であったのと、海からはイギリス海軍によって経済封鎖されていたために、戦争が長引くに連れて食料難になり始めた。食料品店ではいつも長蛇の列を作って、並ばなければならないという状態が長く続いた。



 

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そんな時代の中、母親としても仕事をする女性としても成功した女性の代表に、日本でもよく知られたマリ・キュリー(Madame Curie)『キュリー婦人』がいます。

『ポーランド生まれの彼女は、24歳の時にパリに移り住み、放射線の研究で女性で初めて2度のノーベル賞を受賞、ソルボンヌの大学教授として活躍した。
第一次世界大戦中には銃や砲弾で負傷した兵士の手術をするに当たって、X線撮影を事前にすることで生存率が上がると考え、そのために必要な機材を製造業者や大学から調達して回った。戦中に不足していた車を改造して、X線の設備と発電機を搭載し、技術者指導と講義をしながら、自らも解剖学を勉強し運転免許をとってフランス中の病院をかけ回った。 
マリが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に加え、自動車20台にのぼった。
しかし、このことが原因でX線被曝を起こし、後の健康状態に悪影響を及ぼしたのではと考えられている。』
(ウィキペディアより)
マリは二人の娘と共にアメリカへ訪問し、そこでも多くの女性達から注目され、女性が自立するための大きな影響を与えました。




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そして、戦時中今まで以上にこの時代に活躍した人達として、看護婦や医師、それと負傷者の看護に当たった一般の女性達がいます。
第一次世界大戦は、今までの戦争で経験したことがないほどの死者が出たと同時に、その数を上回るケガ人や障害者を出す事になりました。

毒ガスで神経が侵され、砲弾や火炎放射器で顔や体にひどい火傷を負う兵士が後を絶たず、負傷した兵士を運ぶ病院がない時には、一般の家を解放して女性達が看病に当たりました。



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『日本からは1914年、日本赤十字から医療チームが医師と看護婦31人が派遣され、チームは50日間の長い船旅の末、翌年2月にパリに到着。大量の薬品や医療器具が日本から持って行かれた。
もともと滞在期間5ヶ月の予定だったのを、増え続ける負傷者をそのままにしては帰れないという医師や看護婦の強い希望で滞在を延期し、約1年半近くパリに残って、重症患者の治療と看病に当たり多くのフランス人兵士から感謝された。』


この出来事は2014年にNHKから『 パリ ナースたちの戦場 看護婦が見た第一次世界大戦 』という題名のドキュメント番組が作られています。
日露戦争で負傷者の手術や看護を経験した医師や看護婦は、当時の医療技術としては最先端のもので、フランスでも非常に高く評価されたようです。



国家総力戦と言われた大戦中、どの国でも女性の果たした役割はとても大きいものでした。しかし戦争が終わって男達が元の場所に戻るようになると、徐々に女性達も家の中に戻って行きました。

お互いがひたすら命を奪い合うという時代の中、戦地フランスで必死に人命を救おうと戦った日本人女性がいた事は、同じ日本人として感慨深いものがあります。
若い頃の100年前というと随分昔のように感じますが、この歳になって思うとそれほど遠い昔の話でもないような気がしてきます。





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