森の食堂 ア・ラ・カルト

フランスの片田舎で、四季の食材を使った料理を楽しみながら、森の動物とネコ達と暮らす日々を綴ったブログです。

2015.02.27.Fri

戦争集結から、1920年台「狂騒の時代」へ


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国益、名誉、支配欲とそれに対する抵抗が巻き起こした第一次世界大戦。サラエボで起こった事件は、単に大戦が始まるきっかけに過ぎませんでした。

先の見えない長引く戦争で兵士達は士気を失い、ただ死ぬために戦場に行くのではないかと考え始めた男達の中には、戦地に行くことを拒否する者も出てきました。しかし、そういった兵士は反逆罪として銃殺されます。
戦争末期には、いったい何が原因で、何の目的でこの戦争が始まったのかさえ分からないほどになっていました。

4年に及ぶ争いはドイツが敗北を認める形で終わりを迎え、1918年11月11日フランス、イギリス、アメリカの連合国とドイツの間に休戦協定が結ばれました。(大戦途中ロシア、イタリア、旧オーストリアは長期化する戦争によって、国内で革命が起るなどして離脱)どの国も莫大な国費と資源を使い果たし、過去に例をみない犠牲者をだした。


国境という壁を取り除けば、そこにはどの国もみな同じ平和を願う市民の姿がありました。


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戦争の犠牲になったフランス人兵士136万人。パリ陥落だけは死守しなければならないという想いで戦いに挑んだ、『ヴェルダンの戦い』その時に戦死した身元の分からない一人の兵士が、1921年1月28日に凱旋門の真下に移され埋葬されています。



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名も無き戦士の墓 Tombe du Soldat inconnu

『起こってしまった過去を変えることはできない。しかし、誤った過去でもそれを戒めとしてこれからを生きることで、過去に生きていた一人一人の人生にも意味が出て来る』






そして・・



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1925年 エレガンスコンクール

戦争が終わり、人々は失った時間を取り戻すかのように夜通しダンスホールで踊り、解放された女性達は街にくり出し、希望に酔いしれ、若者たちが自由奔放に生きる「狂騒の時代」(Les années folles)と言われる時を迎えます。









2015.02.22.Sun

働く女性たち 

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第一次世界大戦によって生じた社会の変化のひとつに、中流階級の女性が仕事をするようになったということがあげられます。

それまでフランスの社会の中では、女性はまず家の中の仕事をこなし、良き妻、良き母親であり育児に努めるべきだという考え方が基本的にありました。戦前でも工場で働く女性もいましたが賃金も低く、結婚した女性は、自分で働いて得た給料を主人の了解なしに、自由に使うことができないという法律までありました。(※これは1907年に法律が修正された)

この時代に中流階級以上の女性が仕事をするということは、男性の稼ぎだけでは食べていけないがために、仕方なく外に出て働くと思われていたので、農民、商人、手工業者といった労働者階級の人達とは一線を引くとうい意味で、自分から進んで働きにでるということはなかったようです。
しかし、そういった女性達も事務員や公務員として働き、また自動車や路面電車を運転したりする人達も出できました。

これはこの先(第二次世界大戦以降)、女性が男性と同等に働く権利を獲得し社会に進出行くという、大きな変化のきっかけになりました。

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『徴兵されていった男達に代わり、多くの女性が軍需産業に携わるようにもなり、力の必要な工場の仕事も引き受けるようになった』(砲弾などを作る女性の給料は、戦前は男性の給料の50%ほどだったのが、戦中は80%まで上がった)


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農業国であるフランスは、人口の1/2が田舎で生活をしていた。ただでさえ仕事の多い農家の女性達にとって、馬や男達のいない畑の労働は非常に厳しいもので、戦前に比べると生産量も落ちて行った。

そのため、多くの地方に住む女性達が農作業に割り当てられ、作物を育て家畜を飼育し、搾乳をしてチーズを作るなど食料の生産と調達に努力しなければならなかった。

また、人手の足りない病院や野戦病院での手伝いなどをしたり、戦地に行っている兵士の中で家族のいない者へ、励ましの手紙を書いたり小包を送るという役割もしていた。』

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『フランスはもともと食料の自給率が高かったため、戦中に緊迫した食糧難という事態にはならなかったが、ドイツでは、左に接している国がフランス、右がロシアというように両隣が敵国であったのと、海からはイギリス海軍によって経済封鎖されていたために、戦争が長引くに連れて食料難になり始めた。食料品店ではいつも長蛇の列を作って、並ばなければならないという状態が長く続いた。



 

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そんな時代の中、母親としても仕事をする女性としても成功した女性の代表に、日本でもよく知られたマリ・キュリー(Madame Curie)『キュリー婦人』がいます。

『ポーランド生まれの彼女は、24歳の時にパリに移り住み、放射線の研究で女性で初めて2度のノーベル賞を受賞、ソルボンヌの大学教授として活躍した。
第一次世界大戦中には銃や砲弾で負傷した兵士の手術をするに当たって、X線撮影を事前にすることで生存率が上がると考え、そのために必要な機材を製造業者や大学から調達して回った。戦中に不足していた車を改造して、X線の設備と発電機を搭載し、技術者指導と講義をしながら、自らも解剖学を勉強し運転免許をとってフランス中の病院をかけ回った。 
マリが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に加え、自動車20台にのぼった。
しかし、このことが原因でX線被曝を起こし、後の健康状態に悪影響を及ぼしたのではと考えられている。』
(ウィキペディアより)
マリは二人の娘と共にアメリカへ訪問し、そこでも多くの女性達から注目され、女性が自立するための大きな影響を与えました。




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そして、戦時中今まで以上にこの時代に活躍した人達として、看護婦や医師、それと負傷者の看護に当たった一般の女性達がいます。
第一次世界大戦は、今までの戦争で経験したことがないほどの死者が出たと同時に、その数を上回るケガ人や障害者を出す事になりました。

毒ガスで神経が侵され、砲弾や火炎放射器で顔や体にひどい火傷を負う兵士が後を絶たず、負傷した兵士を運ぶ病院がない時には、一般の家を解放して女性達が看病に当たりました。



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『日本からは1914年、日本赤十字から医療チームが医師と看護婦31人が派遣され、チームは50日間の長い船旅の末、翌年2月にパリに到着。大量の薬品や医療器具が日本から持って行かれた。
もともと滞在期間5ヶ月の予定だったのを、増え続ける負傷者をそのままにしては帰れないという医師や看護婦の強い希望で滞在を延期し、約1年半近くパリに残って、重症患者の治療と看病に当たり多くのフランス人兵士から感謝された。』


この出来事は2014年にNHKから『 パリ ナースたちの戦場 看護婦が見た第一次世界大戦 』という題名のドキュメント番組が作られています。
日露戦争で負傷者の手術や看護を経験した医師や看護婦は、当時の医療技術としては最先端のもので、フランスでも非常に高く評価されたようです。



国家総力戦と言われた大戦中、どの国でも女性の果たした役割はとても大きいものでした。しかし戦争が終わって男達が元の場所に戻るようになると、徐々に女性達も家の中に戻って行きました。

お互いがひたすら命を奪い合うという時代の中、戦地フランスで必死に人命を救おうと戦った日本人女性がいた事は、同じ日本人として感慨深いものがあります。
若い頃の100年前というと随分昔のように感じますが、この歳になって思うとそれほど遠い昔の話でもないような気がしてきます。





Le travail des femmes
Un sujet peux connu, l'aide du Japon
Prmière guerre mondiale et travail des femmes
Les femmes dans la Première Guerre mondiale
La vie quotidienne à l'arrière pendant la Première guerre mondiale
Les infirmières japonaises au chevet des soldats hospitalisés à Paris



2015.02.18.Wed

第一次世界大戦が残したもの

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ちょうど今から100年前、1914~1918年の間フランスは第一次世界大戦の最中にありました。私にとって戦争というのは、映画やテレビのドキュメント番組で見ただけのものでしかありません。
戦争体験者がいなくなりつつある今、大戦を経験したその国で暮らす者として、過去に起きた事に対して何をしていったらいいのか。

自分の居場所をあえて戦いの中に求めて、過激な思想に傾倒する若者が世界中で増えています。

戦争が残した教訓とは何なのか、それを後世に伝える意味とはどういうことなのか。
否応なしにこの大戦に巻き込まれた人々の記録や手紙を拾い集め、簡単ですがまとめてみました。


1914年8月2日
 
村に戦争の徴収命令が来た。
20歳を越え48歳未満の男は戦争へ行かなければならないというものだった。
物資を運ぶための馬や車も手放さなければならない。

収穫を前にした農民にとって、この時期に馬や男手がとられるのは深刻な問題だった。
冬になる前に、土も耕さなければならない。
これからは女性たちだけで、子供を育て畑を切り盛りしなければならなくなる。

兵士のほとんどは職業軍人ではなく、普通の一般人だった。
戦争がなければパン職人であり、靴職人であり、事務員、弁護士、農民だった。
これからは戦士として、銃を持って戦場へ向かう事になる。

誰もがこの戦いはそう長くは続かないと楽観的に考えていた。
暮れのクリスマスまでには帰って来られるだろう。
自分は生きて家に戻るのだ。


1914年12月 

戦争が始まってからわずか4ヶ月の間に、敵と味方を合わせて100万人を越える戦死者が出ていた。
想像以上の死者の数だった。重機関銃も使われるようになり、過去にあった戦争とは圧倒的に武器の火力が違っていた。

遮蔽物の何もない平原での戦いが主だった。そのため塹壕(ざんごう)と呼ばれる、銃撃戦から身を守るための溝を何キロにも渡って掘りそこで戦かった。
湿った寒さの中、泥にまみれ身を隠し、数十メートル先の敵兵とにらみ合う日が何日も続いた。

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当初は戦線の状況が新聞でも伝えられていたが、あまりの死者の多さに、徐々に真実が伝えられなくなっていった。人々の士気が下がってしまうからだ。
味方の兵士の中には、わざと敵に捕まりに行くものも出てきた。捕虜になれば戦わなくてすむのだ。

戦火の届かない所で暮らす人達にとって、戦争というのはどこか遠い想像の中のものでしかなかった。
戦地ではいったい何が起こっているだろう。
クリスマスまでに戻ると言っていた男達はどうなってしまったのか。


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戦いの合間にトランプをしたり、自分の趣味の話やコレクションの交換をしたりもした。
時折キャンプ地で開かれる演劇やマリオネットは、兵士達でいつもいっぱいだった。しかし、何よりの癒しは、家族や友人に手紙を書く事だった。


”兵士から家族に届いた手紙”  -愛する両親へ-

『戦場ではいつも泥にまみれ、空腹と寒さとの戦いだった。
楽しみであるはずの食事も、昼には煙と燃えたススの味のする水を温めたようなスープと、夜には肉の缶詰とジャガイモが支給されるだけで、食事というにはほど遠く食欲も沸かない。』

『突撃の笛の合図が鳴るのが何よりも怖かった。塹壕から出て敵陣に迫らなければならないからだ。戻る事も許されない状態だった。
最前線から戻ってくると身体中泥だらけで、服についた泥を味方にナイフを使って取ってもらった。もう何日も手も顔も洗っていない。
今日は2週間ぶりに靴を脱いで寝た。今では藁の上でも地面でも寝られるようになってきた。もう普通のベットでは寝られないかもしれない。』

『前線ではおびただしいほどの弾が飛び交っていた。砲弾の跡から跡へ移動して進む。分刻みで次の瞬間に、自分は死んでしまうのだと考えていた。
ある時は1200人いた味方が、一戦を交えて帰ってくると300人に満たない時もあった。
どうして自分はこの300人の中に入ってしまったのだろうか。』



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『義母から聞いた義祖父さんの思い出』


「父が戦争に行ったのは17歳の時だった。
20歳以下でも志願すれば、戦いに参加することができたため
父は自分から志願した。

あの戦争の中で、ひとつだけ忘れられない出来事があると言っていた。
それは『人を殺した』と分かった瞬間だった。
その時まで銃を撃っても敵と戦っているというだけで
"人を殺めている"という意識はなかった。

『ある時、戦いの中で一人の若いドイツ兵と鉢合わせになった。
はっきりとその兵士の顔つきがわかるほど近い距離だった。

目と目があった。
彼は自分とさほど変わらぬ年頃で、綺麗な青い目をしていた。
私は身近に自分の死を感じた。

そして私は引き金をひき、彼はその場に倒れた。
撃たなければ撃たれていた。
これが戦争なのだと思い知らされた瞬間だった。

あの時の青年の目を今でも忘れられない』


父は両足とお腹に大きな怪我を負ったため前線から離れ
死ぬまで後遺症をわずらうことになった。
そのため第二次世界大戦には参加できなかった。

鳥でも犬でもどんな動物とでも会話のできる人だった。」







2015.02.17.Tue

ベルエポック Belle époque 

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19世紀末から1914年にかけて、パリでは万博博覧会の開催、地下鉄の開通、アールヌーボーの開花、オリンピックの開催、オスマン氏によるパリの大改造、大手百貨店の開店、自動車の普及と、どれをとってもこれまでにない大きな繁栄を遂げ、『ベルエポック』 (Belle époque)と言われる、これまでのフランスの歴史の中でも、最も華やいだ時期を迎えていました。

この時に建てられたエッフェル塔の存在は、当時の金属産業と建築技術を集結した、まさに時代の象徴といえるのがよく分かります。



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Le Grand Palais グラン・パレ
熱気球の展示風景



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セーヌ川沿いには100のパビリオンが集まり、夢に溢れコルセットをきつく締めた女性達はオシャレを競い、絵画、彫刻、ファッション、映画、家具、宝石、など様々な芸術においてパリは世界の中心と言われた。




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Les Halles (レ・アール、日本でいう築地と同じ、当時フランス一の市場)

街は活気に溢れ、人々は輝きに満ち、仕事を求めて多くの人がパリに集まりました。


    






しかしこの後、1914年から1918年まで4年間に及んで
毎日およそ1万人の死者が出たと言われる第一次世界大戦が始まるとは
誰も予想できなかった。

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Reims Cathedral レンヌの街





2015.02.15.Sun

1878年 パリ万博 

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1878年パリ万博にて ニューヨークへ送られた自由の女神像の頭部








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2013年3月 セーヌ川の自由の女神




2015.02.09.Mon

街から姿を消していった職業②

前回の続きです。

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Raccommodeur de faïence et de porcelaine
割れた食器を直すという仕事。
食器だけでなく陶器一般、壷や鍋も。

その他、裁縫をしたり傘を直す人、カゴを直す人も通りに出て仕事をしていました。




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これは椅子を直す人 rempailleur de chaises

普通の腰掛け椅子は、座る部分が藁でできていました。
古くなるとその部分だけを張替えていたようです。



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座る藁の部分を張替え中 





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ramasseur de cigare

タバコの吸い殻を拾い集めて、新たにタバコ作り直す。
いわゆるシケモク作り。





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ガラス屋さん Le Vitrier
割れたガラスを取り替える人

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ベットを縫い直し中? Matelassiere






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刃物を研ぐ人  rémouleur

丸い砥石を回転させて刃を研ぐようです。





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店頭のガラス拭き  Nettoyeur de devantures






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Vendeuse de journal
新聞を売る女性。


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Vendeuse Boulangerie
パンを売る女性




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ハエを捕る人



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下水道でネズミを捕まえる人




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ワンコを洗う仕事

こうなると何でも商売になってきますね。





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Le charmeur d’oiseaux.
公園にいる鳥達を相手に(大道芸)










2015.02.08.Sun

街から姿を消していった職業①

中世期のパリはまだ下水道が設備されていなかったため、汚水をそのまま道に投げ捨てていました。以前のブログ→(鼻の都は臭かった・・)街の中はいつも生ゴミや汚物の臭いで溢れていたようです。そんな不衛生な街をなんとかしようと、19世紀末から20世紀初頭にかけ、ジョルジュ・オスマン (Georges-Haussmann)という人の手によって、パリ近代化へ向け都市整備が行われていきました。

それまで迷路のように複雑に入り組んでいたパリの道や家々を取り壊し、新たに大きなアパートをいくつも建て、水道と下水道を配備し、大通り、地下鉄、浄水場や貯水槽、学校や病院などの公共施設が作られ、現在のパリの街の基礎が出来上がりました。

そういったインフラの整備と近代化が進むに従い、人々の生活様式も大きく変わっていったようです。そんな中、徐々に姿を消していった職業がありました。
昔はどんな職業の人達がいたのか調べてみました。


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以前、パリにはライフラインとなる水道が整備されていなかったので、人々は井戸や湧き水のあるところまで、水を汲みに行かなければなりませんでした。
そこで街で暮らす人のために水を運ぶ、『水の運び屋』-porteur d’eau-という職業があったそうです。

馬車などで水の入った大きな樽を街まで運び、それを左右10Lずつバケツに入れて、その界隈やアパートの階段(当時6階建て)を上り下りしていたそうです。


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水の運び屋の多くは、オーベルニュ出身(ボルヴィックで有名な地方)だった。
人々の間では「犬の職業」« un métier de chien » と呼ばれ、
何度も水場と街を往復する肉体的にも大変な仕事だったようです。

しかし、街が近代化しアパートの最上階まで水が届くようになると
段々その職業も姿を消していきました。



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飲料水では18世紀後半から20世紀初頭にかけて、フランス(主にパリ)とベルギーで『ココ売り』という人がいました。

『ココ』というのは、レグリス(Réglisse)という独特な香りと味のする木の枝とレモンの風味をつけた飲料水の事で、それを特製のタンクに入れて背負い、コップをいくつもベルトにひっかけて「ココ〜、ココ〜はいらんか〜!!」と鐘を鳴らしながら通りを歩いて商売をしていたそうです。

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marchand de coco

20世紀になると、タンクを背負わなくなり屋台で売られるようになりました。
こんな職業が100年以上存在してたんですね。

日々の糧を得る為に、通りで仕事をする人達。
今ではもうなくなってしまった様々な職業が、街には存在していたようです。
続く・・







2015.02.06.Fri

Paris 15区、メトロ6番線沿い

エッフェル塔に近いメトロの線(6番線)が作られてから100年が経つということで、その老朽化してきた鉄橋部分を去年の夏から改修工事していました。

この鉄橋ができた当時の様子が、ポストカードとして残っているので、散歩した時に撮った写真と比較してみました。


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commerce通り 
写真の奥はパリ万博の時に置いてあった観覧車。1910〜1920年頃? 
この頃はまだ車が走っておらず、パリの中には約10万頭の馬がいたということで
街中はひずめの音と馬車の音で、いつも賑やかだったそうです。

そんな音が煩わしい時は、道にワラを敷きつめることもあったとか。


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現在(上写真、陸橋の反対側、2013年)
鉄橋の下では今でも週二回市場が開かれています。

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当時







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15区 Clodion通り  Grenelle大通り  1930頃 

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現在







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commerce通り1930~1940年頃? 

馬車に代わって自動車が走り始めます。
まだ電気がひかれていない場所では、夜にガス灯に火を灯して回った。

生活ゴミは、鉄か木製のゴミ箱に入れて店頭に置かれ
回収したものは一部セーヌ川に直接捨てられていました。⬇

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ぎょっ!


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現在








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メトロ6番線  Viaduc de Passy   Bir-Hakeim橋 

まだこの6番線ができていない初期の頃、車両は木製でした。
ところが火災により80人以上が死亡するという事故が起きたため
1920年から鉄でできた車両に代わっていきました。



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現在
この鉄橋の下は映画やCMの撮影などで使われるので、
見覚えのある方もいらっしゃるかもしれません。


パリの歴史を調べていると19世紀末から20世紀初頭に行われたパリ万博に合わせ、大きく街が変化したことが分かりとても興味深いです。







2015.02.04.Wed

2月3日、続き②

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買い物を午前中に終え、妻は義母に会いに行き
私一人になったので、フラフラと散歩に行きました。




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人の集まる観光スポットでは、銃を持って警備している人を時々見かけます。
フランスに来た当初は、むき出しのマシンガンなど見た事もなかったので
随分物騒だなと感じたものです。



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日本にいる時も、街中でカモメをよく見かけましたが
ここでもたくさんカモメや他の鳥が飛んでいて
観光客の食べるサンドイッチのおこぼれを頂戴していました。




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観光客が落とすパンを並んで待つ鳥たち。






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ここでもくれくれ状態・・(*^ ^*)






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おかげでカモメの姿を間近で撮れました。








2015.02.03.Tue

2月3日①

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2月3日

今日は買い物へ行きました。 街中でも気温は6〜7℃とやや低め。
来週はさらに気温が下がるそうです。

フランスの服のサイズはS・M・Lとほぼ日本と同サイズです。


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二年以上前に日本で買ったデジカメの調子が悪くなってきました。
画像が暗くなってしまうのです。











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