森の食堂 ア・ラ・カルト

フランスの片田舎で、四季の食材を使った料理を楽しみながら、森の動物とネコ達と暮らす日々を綴ったブログです。

2015.01.14.Wed

イスラミスト

今回の記事も前回のように「森の食堂」から連想される今までの記事とはだいぶ違って、イスラム過激派のことが多くを占めています。いつもブログに足を運んで下さっている方に、読む事やコメントを強要したくありませんので、是非興味のある方だけご覧になって下さい。


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西暦2000年に入ってから世界各地でイスラム過激組織(以下:イスラミスト)の起こすテロ事件や虐殺が頻繁に起こるようになってきた。
そんな事件が起こる度に多くのイスラム教徒は、イスラミストの信じるイスラム教は本当のイスラム教ではない、イスラム教では殺人を禁じていると言う。

今回の事件で犠牲になったフランス人警察官3人のうちの一人もイスラム教徒だった。その警察官の家族も「イスラム過激派とイスラム教を混同しないで欲しい」と話している。

しかし、こうまでたくさんイスラミストによる事件が世界中で起きていると、イスラム教というのは、いったいどんなことを教えている宗教なのだ?と思わずにはいられない。どんなにイスラム教で殺人は認めてないと言われても、イスラム教との因果関係なしで考えることはできないのではないか・・と誰もが思う。


宗教というものは、その時代の人々や社会の考え方によって、それぞれの教えの解釈の仕方が大きく変わってくると思う。


中世ヨーロッパで起こった魔女狩りも、現代ではとても信じられない理由で、人々が魔女裁判にかけられ、数百万の人が処刑された。そしてその80%が女性だという。
魔女は悪魔と結託して、キリスト教社会を破壊する存在だと本気で考えられていたのだ。

この魔女狩りも、本来キリスト教では人を殺すことが禁じられているにもかかわらず、宗教の名のもとに大義名分によって、人を殺す事も善しということになってきた。


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古代、争いやいざこざが耐えず、病に苦しみ盗みや殺人が繰り返される世の中で、人間が人間らしく社会で生きて行くために、心のよりどころとして宗教が生まれ発達してきたのだと思う。

そんな時代の中で生まれてきた、ひとつの宗教であるイスラム教の教えの中に、「不条理な抑圧や人を苦しめる行為に対しては、抵抗しなければならない」という考え方があったとしても不思議ではない。

それは現代にも通じることで、不当な行為や残虐な行為が、世の中で平気でまかり通ってはいけないのだ。


ところがイスラム過激派の考え方の中には、その不正や不条理な抑圧こそが、現在のアメリカやヨーロッパ、ロシアが自分たちにしていることであって、そのことに対して抵抗をすることは当然のことであり、それを『正義による聖なる戦い』だと解釈しているから始末が悪い。

その聖なる戦い(ジハード)で死んだものは、天国へ行く事が保証されているので、イスラミストは「死」というものを怖がらない。しかもその天国では、現世での行いの報奨として72人の乙女が与えられ、永遠に性交をして楽しんで暮らせるという。


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-ナイジェリアでボコ・ハラムと言われる過激派組織から逃げてきた女性達-


イスラミストは村を侵略し自分の領地を広げ、男性や異教徒は見せしめに首を切られるか銃殺される。

そして女性たちは、戦いの戦利品として市場で性の奴隷として売買され、絶対的な服従を強いられる。
女の子には勉強する権利を認めていないため、子供たちの学校が破壊される。

アッラーの名の下に日々殺戮が繰り返されている。
そんなイスラミストの行為を知れば知る程、どんどん気持ちが落ち込んでくる。

首を槍に刺してさらしものにするなど、これはもう何もかも数百年前に中世ヨーロッパがしてきたことと同じだ。
果たしてこの現代の私たちの考えと、彼らイスラミストとの思想の隙間を埋めることができるのだろうか・・。



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フランス人はフランス革命で掲げた、自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité )の精神を脅かす存在と、宗教的な力に支配されることに対して激しく抵抗をする。

今回のテロ事件は、そんな最もフランス人の嫌う、政治と宗教をごちゃ混ぜにした、平等という概念を持たないイスラム過激派によって、表現することと宗教を選ぶ自由を脅かされ、イスラム教徒を裏切った。


※イスラム教を尊重する意味で画像は削減します。

そして今日、シャーリー・エブドから新しい新聞が発行された。絵には「私はシャーリー」と描かれたカードをイスラムの予言者が手に持っている。

上には『全ては赦された』と書かれている。そのまま意味を解釈しようとすると、「私たちシャーリーも、イスラム過激派も(神によって)赦された」
つまりお互いを赦しなさい、敵をも赦しなさい。というキリストの教えのようにとらえることができる。


この絵のことで妻と少し口論になった。これは明らかにイスラミストを挑発しているものに感じたからだ。
フランス人が見たら誰でも分かる。これは”キンタマ”と予言者をだぶらせて描かれている。しかも、すでに予言者を偶像化してしているので、その時点でイスラム教を冒涜しているということになる。

この絵についてシャーリー・エブドは、記者からの質問の答えに対して「決して”タマ”を連想して描いている訳ではない」と言っていたが、誰が見てもそう感じるものは、やはり載せるべきではないのだと思う。

「表現の自由」を大義名分にすれば、何をしても良いというものではない。


ウィキペディアによると風刺画とは、主題の愚かしさを暴きだし嘲弄するものと書かれてある。この絵は一見誰かが反省しているようにみえるけど、売られたケンカを買っているように取られても仕方がない。
しかも、この「赦される」という言葉にキリスト教的なニュアンスがあるとしたら、もうこの戦いは終わらない。
トルコではインターネットで、この風刺画が見られなくなっているらしい。

剣を突きつけられて、剣で返しても争いは収まらない。必要なのは他でもない剣を収める鞘なのだ。
それが見つかるのは、まだまだ先の事なのだろうか。








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