森の食堂 ア・ラ・カルト

フランスの片田舎で、四季の食材を使った料理を楽しみながら、森の動物とネコ達と暮らす日々を綴ったブログです。

2015.02.18.Wed

第一次世界大戦が残したもの

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ちょうど今から100年前、1914~1918年の間フランスは第一次世界大戦の最中にありました。私にとって戦争というのは、映画やテレビのドキュメント番組で見ただけのものでしかありません。
戦争体験者がいなくなりつつある今、大戦を経験したその国で暮らす者として、過去に起きた事に対して何をしていったらいいのか。

自分の居場所をあえて戦いの中に求めて、過激な思想に傾倒する若者が世界中で増えています。

戦争が残した教訓とは何なのか、それを後世に伝える意味とはどういうことなのか。
否応なしにこの大戦に巻き込まれた人々の記録や手紙を拾い集め、簡単ですがまとめてみました。


1914年8月2日
 
村に戦争の徴収命令が来た。
20歳を越え48歳未満の男は戦争へ行かなければならないというものだった。
物資を運ぶための馬や車も手放さなければならない。

収穫を前にした農民にとって、この時期に馬や男手がとられるのは深刻な問題だった。
冬になる前に、土も耕さなければならない。
これからは女性たちだけで、子供を育て畑を切り盛りしなければならなくなる。

兵士のほとんどは職業軍人ではなく、普通の一般人だった。
戦争がなければパン職人であり、靴職人であり、事務員、弁護士、農民だった。
これからは戦士として、銃を持って戦場へ向かう事になる。

誰もがこの戦いはそう長くは続かないと楽観的に考えていた。
暮れのクリスマスまでには帰って来られるだろう。
自分は生きて家に戻るのだ。


1914年12月 

戦争が始まってからわずか4ヶ月の間に、敵と味方を合わせて100万人を越える戦死者が出ていた。
想像以上の死者の数だった。重機関銃も使われるようになり、過去にあった戦争とは圧倒的に武器の火力が違っていた。

遮蔽物の何もない平原での戦いが主だった。そのため塹壕(ざんごう)と呼ばれる、銃撃戦から身を守るための溝を何キロにも渡って掘りそこで戦かった。
湿った寒さの中、泥にまみれ身を隠し、数十メートル先の敵兵とにらみ合う日が何日も続いた。

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当初は戦線の状況が新聞でも伝えられていたが、あまりの死者の多さに、徐々に真実が伝えられなくなっていった。人々の士気が下がってしまうからだ。
味方の兵士の中には、わざと敵に捕まりに行くものも出てきた。捕虜になれば戦わなくてすむのだ。

戦火の届かない所で暮らす人達にとって、戦争というのはどこか遠い想像の中のものでしかなかった。
戦地ではいったい何が起こっているだろう。
クリスマスまでに戻ると言っていた男達はどうなってしまったのか。


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戦いの合間にトランプをしたり、自分の趣味の話やコレクションの交換をしたりもした。
時折キャンプ地で開かれる演劇やマリオネットは、兵士達でいつもいっぱいだった。しかし、何よりの癒しは、家族や友人に手紙を書く事だった。


”兵士から家族に届いた手紙”  -愛する両親へ-

『戦場ではいつも泥にまみれ、空腹と寒さとの戦いだった。
楽しみであるはずの食事も、昼には煙と燃えたススの味のする水を温めたようなスープと、夜には肉の缶詰とジャガイモが支給されるだけで、食事というにはほど遠く食欲も沸かない。』

『突撃の笛の合図が鳴るのが何よりも怖かった。塹壕から出て敵陣に迫らなければならないからだ。戻る事も許されない状態だった。
最前線から戻ってくると身体中泥だらけで、服についた泥を味方にナイフを使って取ってもらった。もう何日も手も顔も洗っていない。
今日は2週間ぶりに靴を脱いで寝た。今では藁の上でも地面でも寝られるようになってきた。もう普通のベットでは寝られないかもしれない。』

『前線ではおびただしいほどの弾が飛び交っていた。砲弾の跡から跡へ移動して進む。分刻みで次の瞬間に、自分は死んでしまうのだと考えていた。
ある時は1200人いた味方が、一戦を交えて帰ってくると300人に満たない時もあった。
どうして自分はこの300人の中に入ってしまったのだろうか。』



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『義母から聞いた義祖父さんの思い出』


「父が戦争に行ったのは17歳の時だった。
20歳以下でも志願すれば、戦いに参加することができたため
父は自分から志願した。

あの戦争の中で、ひとつだけ忘れられない出来事があると言っていた。
それは『人を殺した』と分かった瞬間だった。
その時まで銃を撃っても敵と戦っているというだけで
"人を殺めている"という意識はなかった。

『ある時、戦いの中で一人の若いドイツ兵と鉢合わせになった。
はっきりとその兵士の顔つきがわかるほど近い距離だった。

目と目があった。
彼は自分とさほど変わらぬ年頃で、綺麗な青い目をしていた。
私は身近に自分の死を感じた。

そして私は引き金をひき、彼はその場に倒れた。
撃たなければ撃たれていた。
これが戦争なのだと思い知らされた瞬間だった。

あの時の青年の目を今でも忘れられない』


父は両足とお腹に大きな怪我を負ったため前線から離れ
死ぬまで後遺症をわずらうことになった。
そのため第二次世界大戦には参加できなかった。

鳥でも犬でもどんな動物とでも会話のできる人だった。」







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